2008年11月

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肝臓ガンの再発・・・・・・本当にショックだった。再発を言われたときに、どうも市民病院でお世話なったA先生に手術をしてほしい、とずっと私は言っていたらしい。そう言われてみれば、言った記憶が少々ある・・・・。なぜだか分からないが。

とりあえず再発した事をA先生に伝えに行った。なんとY先生からメールでもう連絡が入っていて私のことを知っていた。なんと私が希望すればA先生が手術をしてもかまわないとのこと。

ただ、手元に資料がないから何とも言えない。6月末の血管造影の検査が終わったら、とりあえず診察だけでもしてほしいと頼んでおいた。


ついに、検査と抗ガン剤治療のため、入院となった。Y先生からは、手術はどうする?A先生にお願いするなら、がんセンターでの外来診察はキャンセルするよ、と言われた。

手術をするにもいろいろとタイミングがある。がんセンターですべてやった方が良いには決まっている。手術だけ他の病院で・・・・と言うのも何だかなぁ、と言う気持ちはあった。でも、出来ればA先生に手術をしてほしいというのは本音ではある。がんセンターのS先生も良い先生である。評判も腕もよい。私も信頼できる先生なのだが・・・。

答えは明日の造影剤の結果が出るまで待ってほしいと伝えた。

そしてその結果が出た。夫婦二人、別室によばれた。パソコンで造影剤の結果を見せてもらいながら言われたことが、「手術は不可能」と言う言葉であった。

一瞬間があり、今何を言われたのか、が、理解できないでいた。四つのガンのうち、二つが動脈のすぐそばにあり、また悪いことにそのウチの一つが心臓近くにあるのだという。

目の前が真っ暗だった。このときも何を言われたのか、私が何を言ったのか、ほとんど覚えていない。だだ泣く事しかできなかった。

Y先生も相当困っている様子だったという。この前頑張るって言ってたのに・・・と言う言葉は聞こえた。そんなこと言ったのは全く覚えていない。

最後、私はこれからどうすればいいでしょう、というのを聞いた事は覚えている。少し先生が考えた後言われた言葉が、「母として妻として、家族に遺言を考えるのもあなたの役目」であった・・・・。なんときついことを言う先生だろう。本気でそう思っていた。

それが昼間の話である。

午後一番最後に、外科のS先生の診察を受けた。手術不可能なのだから外科の先生の話を聞いても何にもならないのに・・・・・もう気持ちも体も疲れ切っていた。

・・・・・・・・・カルテとパソコンを見ながら言った一言が、なんと「手術は出来ますよ」である。

でも、「さっきY先生からは不可能だって言われたばかりですが」、と聞き直したら、いつもののんびりした口調で「内科医と外科医の見解は違いますからねぇ」の一言で終わってしまった。

わがまま言って、今のままで手術してと言っても出来ますか、と訪ねたら、自信ありげに出来ますと言うことだった。

ただ場所が場所だけに、抗ガン剤で小さくしてから手術しましょうと言うこととなった。

本当に落ち込んだり喜んだり忙しい一日となった。でも、手術が出来ると言われてホッとした。これで安心して抗ガン剤治療を続けられる。しかし、Y先生からは二度とA先生に手術をお願いしようかという話は無くなっていた。

図々しい神経の持ち主だと私は思っていたが、やはり精神的に落ち込む日々が続いていた。夜なかなかねられなくなり、その分昼間眠い。気分も浮き沈みが激しい。

入院中に精神安定剤と睡眠導入剤を処方してもらった。今でもそれは飲み続けている。

治療の話はメドがついたが、まだまだ問題はある。それは支払いのことだった。それは次回書くことにしよう。それではまた。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
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2月29日の外科外来では、特に問題はなかった。傷口もしっかりくっつている。二月中に一度CT検査もしていたのだが、こちらも何もなし。少々肺に水がたまっているらしいが、これは手術の影響で、自然になくなると言う。とりあえずホッとした。

3月に入って再び消化器内科のY先生の元での通院となった。抗ガン剤を始める為である。本来なら去年使った点滴を使いたい(治験の飲み薬以外の薬)とのことだが、それにはポートをもう一度入れなくてはいけない。
私ははそれを断固拒否した。また熱が出たらポートを外さなくてはならない・・・・と言うことが怖かったのである。

そこで提案されたのが、飲み薬である。点滴と同じ成分があるという。ただ、やはり点滴投与よりも効き目は落ちるという。その分副作用は少ないらしいが。

一日7錠、2週間飲んで1週間休む。それを8回繰り返して様子を見ましょうと言う事になった。薬代も2週間分で10,000円ちょっと。これなら金銭的にもどうにかなる。3週間に一度の通院になった。

そのままその足で、市民病院に入院していたときのお世話になったA先生にそのことを報告に行った。よかったねと笑顔で言われた。一番初めのA先生の処置がよかったから、転移もせず、人工肛門も外せたのだと、S先生に言われました、と伝えたら、「当たり前のことをしただけですよ」とのこと。でも顔が笑っている。うれしいならうれしいと言えばいいのに・・・・。でも、その当たり前のことが当たり前に出来ない人もいるのだ。有り難い言葉である。

休んでいた息子のPTA役員の仕事も再開した。良い方向へ行く・・・・・家族の誰もがそう思っていた。

ところが・・・・・である。四月末に行ったCT検査の結果があまり芳しくなかった。白い陰があるという。五月半ばの通院時に言われた。

Y先生曰く、たぶん「脂肪のかたまりだろうとは思うが・・・・」とのことである。いい話は絶対にしない先生である。その言葉を信じたい。五月中に超音波の検査をして、その結果は六月の次回通院時に報告できるという。その結果を待つ間がずいぶん長く感じられた。

そしてその当日。肝臓ガンの再発であることを伝えられた。四つあるという。何故こんなに早く再発してしまったのだろうか・・・。

 その後のことはほとんど覚えていない。主人の話によると、私はパニックになり、泣きわめいていたらしい。ただ覚えているのは、「私はもう頑張れない」と言ったこと、Y先生が「あなたが頑張れなくても僕が頑張ってあげるよ」と言われたことである。これも有り難い言葉だった。

飲み薬の抗ガン剤はその日で終わった。やはりポートを入れて去年使っていた薬を使うしかないと言われた。

六月末に入院し、血管造影の検査をしてはっきりとガンの大きさや場所を確認すること、7月初めにポートを入れ、一回目の抗ガン剤投与となった。

それではまた次回。

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手術後の経過は順調だった。

術後の次の日に、S先生から、鼻からの管、どうしようかな、と言われた。私は二つ返事で抜いてほしいと言ったら「それではリクエストにお答えして、抜きましょうね」と、のんびりした口調で言われた。相変わらずホッとさせてくれる話し方である。

そしてそのまま、一人部屋への移動となった。一人部屋に一日だけいて、大部屋へうつされた。順調に快復している証拠なのだろう。でも、あまりその頃の記憶がない。

大部屋移動と共に尿管のみ外された。と言うことは、トイレには自力で行かなければならない事である。

そうだ・・・・もう二日たってしまったのだ。背中に痛み止めの薬は入っているので前回よりは歩くのは楽であるが、それでも傷口は長い。初めの一歩は怖かった。でも歩かないと治らないのである。廊下の窓から見える富士山を楽しみに、歩くのが日課となった。

それと同時に肛門部分の筋肉を鍛えるという体操をしなければならない。簡単な動作のだが、結構傷に響く。

何せ半年も肛門を使っていないので便失禁をする可能性があると言う。看護師からは夜は紙おむつを使った方が良いかも・・・と言われた。又は生理用ナプキンの特大の物。

そう言えば以前同室だった人が、人工肛門取れると後が大変だよって言っていたっけ・・・・。どうなってしまうのか、不安だった。

26日にガスが出た。28日からは水分を取ることを許可され、29日にはヨーグルトのみ食べて良いことになった。これがまたものすごくおいしく感じる。

31日からは三分がゆの食事も始まった。

と言うことは便が出てくると言うことである。でも不安は杞憂に終わった。便をしたいという感覚がある。トイレに行くまで間に合ったのである。初めは下痢状だったが、だんだんと普通になっていくのが分かる。

当たり前のことが当たり前にできる・・・・・ 健康の時には感じなかった事をしみじみと幸せだなと感じるようになった。

便失禁がないと言うことを看護師に報告すると驚いていた。そう言う話は聞いたことがないらしい。私は幸せ者なのだろうか。

ただ便の回数が多いので、恥ずかしい話しだが、痔になってしまった。回診は主に担当医のH先生がしてくれる。先生に訴えても薬を出してくれない、笑いながらトイレで洗ってさっと拭けば治るよ、としか言わない。でも確かにそうであった。

このH先生、私より一回り若い医師である。傷口を消毒してもらうときも、胸一杯広げ、パンツも下げさせられる。そう言う事は少々恥ずかしかった。

でも、この先生も良い先生だ。元気でいろいろと励ましてくれるし冗談もよく言う。痛みで落ち込んでいた私は、この先生にに元気をもらえた。

同室の人は回診のたびに、先生と私のやりとりを聞いて笑っていたとのことだった。

2月に入り、12日にすべての管が抜けた。と同時に退院が決まった。なんと14日に退院してくれと言う。まだ少々傷口が治っていない、というと、そのぐらい自分でで出来るから市販薬買ってやれば大丈夫と言われた。15日には別の入院患者が決まっているという。

もちろん退院できると言うことはうれしい。先生二人にバレンタインデーの手紙を残して晴れて退院となった。

ただ・・・・・。晴れて完治とはならなかった。消化器内科のY先生と、入院中にすれ違ったときに「まだ僕の患者だよ」と言われていたのである・・・・・。

とりあえず29日に外科の外来の予約だけして退院した。

それではまた次回。

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21日に改めて入院となった。

肝臓には11個のガンがあった。それを二つ・・三つ・・・とまとめて四つのブロックにして切るという。その後に腸を繋ぎ人工肛門を外して、本来の肛門が使えるようになると言う。
 本来は肝臓の手術は胸の下を横に切るのだが、人工肛門をつなげることもあり、大腸ガンの時にきった傷跡をなぞってそのまま一直線に切るという。鳩尾から恥骨まで約30センチの傷跡になるらしい。

入院した日から断食である。鎖骨のしたから点滴用に器具を入れる処置をしてもらった。術後しばらくは栄養剤をいれたり、その都度必要な点滴をするためである。

主治医はS先生だが、担当医としてH先生がついてくれた。手術は二人で執刀してくれるとのこと。

集中治療室の看護師、手術室担当の看護師、麻酔医師の説明を聞き、22日にはまた下剤を飲むことになった。21日には便を軟らかくする薬も飲んでいる。

前回と同様1.8リットルのスポーツドリンク味の物である。この日を境にスポーツドリンクは飲めなくなった・・・・・・・。

23日当日はもう便は出ないというのに、浣腸をされた。鼻から胃まで届く管も入れた。これを入れるのも辛い処置だった。終わった頃には涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになってしまった。

手術室には9時にはいる。手術前にかかる処置が一時間程度、10時頃から手術開始、8時間程度かかるそうだ。
 まずは背中に痛み止めの管をいれる。手術後にも使用するらしい。それから背中の麻酔、マスクタイプの、口からの麻酔をしてもらった。そのまま意識か無くなった。

外では主人がずっと付き添っていていた。朝8時頃には来ていてくれた。検査では特に異常は見られなかったが、開いてみないと分からないこともあるらしい。その時には手術中断ということもある。

途中で病棟の看護師に何度か声をかけてもらったそうだ。何か言われたか、と聞かれて、何も言われ無いと返事をしたら、順調に手術が進んでいるようね・・・・と言われたらしい。

その日は他にも手術をしている。他の方は次々に無事手術を終えて出てくるが、私はいっこうに出てこない。順調にいっている証拠なのだが、やはり主人は出てくるまで心配でしょうか無かったらしい。

六時を過ぎて先生が出てきて無事に終わりましたよ、と言われたときには心からホッとしたとのこと。

私は私で名前をよばれ、目を覚ました。主人がそばにいてくれた。集中治療室なので長い時間の面会は出来なかったが、互いにホッとしたときである。
そのまま私はまた眠ってしまった。

それではまた次回。

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まずは、日帰りの検査からである。一番初めは胃カメラである。これも大の苦手である。
市民病院の時は、のどの麻酔の他に検査時に腕からも麻酔をしてくれた。なので胃カメラを飲むときには、全く苦痛がなかった。

ところがガンセンターでは腕からの麻酔は禁止であるとのこと。胃カメラを飲み込む事が本当に辛かった・・・・・・。

次には腸の検査である。まずは1.8リットルの下剤を飲まなければならない。味はスポーツドリンクの様である。前日に900ミリリットル、当日の朝残りを飲む。

初めは飲みやすいと思っていた。が、一時間のウチに飲み終えなければならない。次の日にはもう飲みたくないよ‼と思っていた。

次は腸の検査である。まずは浣腸から始まった。12月28日の外科の受診の時に、石の固まりのような物があると言われていた。肛門を触られた。少々、屈辱であったが仕方がない。

白い固まりが出てきた。長く肛門を使っていなかったので、腸の粘液が固まって出来た物だそうだ。それを取り除いて内視鏡の検査となった。

これも麻酔は使えない。まずは人工肛門の所から、である。内視鏡が入っていく感覚はあったが苦痛ではない。後は少し残っている肛門部分の検査である。便が出るはずがないのに便をしたいという感覚がある。短い時間だったので助かったがしばらく違和感があった。

それから注腸検査・・・・・と言われたと思う・・・・・をした。これは100ミリリットルぐらいの造影剤を入れて腸の形を調べる物である。

その造影剤を少しずつ動かしながらレントゲンで見るのだが、そのために上を向いたり下を向いたり左右に動いたり、腹ばいになったり・・・・・・大変な検査だった。

もちろん肛門部分からも入れる。腸の方は一日がかりの検査となった。肛門部分は2~3日は違和感が続いていた。本当に辛かった検査である・・・・・。

幸いにすべての検査に異常がなかった。これで手術が決定である。検査は辛かったが手術が出来ると言うことに喜びを感じていた。

手術の出来るガンはいいガンであるという。出来ない人も実際多いのだ。有り難いことである。

それではまた次回。

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Y先生から紹介された消化器外科のS先生、ものすごく第一印象がよかった。細身のおしゃれな感じのする医師である。

年末の26日、別の病院でのペットの検査、そのままがんセンターに2泊3日の入院で血管造影検査をし、S先生の診察を終えての退院となった。

私は正直閉所恐怖症である。MRI検査も言われたが、嫌だと言ったらじゃあ受けなくても良いよ言われた。その代わりにペットの検査である。CTよりやや長めの大きさの機械、一枚の写真を撮るのに2分かかる。私の身長だと15分ぐらいかかるそうだが、それでも辛かった。

それが終わってすぐに入院した。次の日に血管造影となったが、当日話を聞いて驚いた。検査そのものは一時間もかからないが、足の付け根の動脈から検査をするので、一晩真上を向いたまま動いてはいけないそうである。それがとても辛いとのことだった。
検査終了後、右足は固定される。尿管も入れられた。苦しい一晩だった。

3日目の午後、S先生の診察の時間となった。第一印象のように、とても良い先生だった。大変なことなのに、大変ではない事のように聞こえる。丁寧に易しく説明してくれる先生であった。手術を安心して任せられる・・・・・と思った。

ペットも造影剤の検査もどこも異常なしという結果だった。

そこでまず最初に言われたことが「取る?」の一言だった。意味がよく分からなかった。手術するのだからガンを取るのに決まっている。何を取るの・・・・・・を聞こうと思ったら先生の方から人工肛門を一緒に取る手術もしましょうとのこと。

最初の処置がとてもよかったそうである。本来ならガンが破裂すると、その飛び散った破片からあちこちに転移することが多いらしい。私の場合、同時に見つかった肝臓ガン以外に転移が見られない。

取りますか?どうしますかと聞かれたが、もちろん答えは「取って下さい」である。夫婦してうれしさで涙が出てきてしまった。

先生からは、そう言うと思っていたのでもう予定は組んでいますとのことだった。年明けの14日から16日の間に、胃カメラ、大腸の内視鏡等の検査、21日に入院して23日の手術がすでに決まっていた。

ただ、この頃にはストマの取替えが上手になっていた。主人がやってくれていた。今までの苦労は何だったのでしょう・・・・とポロッと言ってしまったのだが、一瞬の間の後、無駄にはならないでしょうと言う返事だった。涙を浮かべながらの大笑いとなった。

それではまた次回。

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3日に退院後、次回の抗ガン剤投与は13日の火曜日となった。今度からは通院での治療だ。

入院中には、医師が驚くほどの治療効果があった。二度の投与で腫瘍マーカーの値が激減したそうだ。こんなに減っているのは今まで見たことか無い、と言われたほどだ。

九日か十日頃だったと思う。37度台の熱が出た。ポートが原因だろうか心配になったが微熱である。13日には受診があるから様子を見よう、と主人と話し合った。12日は姑が退院して老健に戻ることになっている。火曜日で良いよ・・・・・と簡単に考えていた。

ところが、である。日曜日になって39度近い高熱が出た。病院は休診である。

月曜日になってやはり心配になり、病院に電話をしてみた。すぐに診察に来なさいとの事だった。娘がたまたま大学が休みだった。私と娘を病院におろし、主人は姑の所へと向かった。

すぐに処置室に行かされた。そこでY先生をしばらく待つことになった。一時間ぐらい待ったときだろうか、先生が駆けつけてくれた。初めの一言が「微熱が出たときに何故来なかったの。治験なのだからどんな副作用があるか分からないんだよ。このままじゃ死んじゃうよ」と怒鳴られた。

それは本当に私のことを心配しての言葉だ、と言うのがよく伝わった。第一印象とは全く違う、温かい言葉だった。

すぐに入院となった。娘には主人にすぐに連絡を取ってもらい、入院に必要な物を持ってきてもらうよう頼んだ。旅行用バッグにいつ入院しても良いように用意していたのである。

初めは大部屋に入り、いろいろと検査をしてもらった。その結果、個室への移動となった。白血球がほとんど無かったのである。
 白血球を増やす注射、抗生物質の投与を一週間ぐらい続けただろうか。熱は40度近くまであがってしまった。
トイレ以外は部屋から出ることは禁止、トイレも車いす使用となってしまった。

解熱剤も処方された。ロキソニンという痛み止めにも使われる薬である。この薬はよく効くのだが、汗を大量にかく。効き目が無くなるとひどい寒気がおそってくる。熱よりもそちらの方が辛かった。

熱の原因はやはりポートだろう・・・と言う診断がくだされた。これを抜かない限り熱は下がらない。結局また取り除く処置をするしかなかった。

それでもしばらくは熱は続いた。熱が下がり始めた頃から、足にはしかのような赤い斑点が出て来る様になった。それがだんだんと大きくなり、足からお腹へ、お腹から胸へ、ついには顔へと体全体が赤黒くなってしまった。これがなんなのか全く分からない。ついには皮膚科の医師を呼ぶととなった。

塗り薬をもらい様子を見ることになった。はしかではないことは分かっている・・・・・幸いにも一週間程度でだんだんと足の方から治ってきた。

当然抗ガン剤の治療はストップした。11月30日付けで治験の治療も打ち切りとなった。

退院できたのはクリスマス直前、12月19日だった。

ここでY先生から手術という話が出た。26日に再入院して血管造影検査をするという。外科の医師も紹介された。その話はまた次回。

余談になるが、この入院で冷たいと思っていたY先生の印象が全く変わってしまった。よく笑う先生である。冗談も出るようになった。
 ある日、先生にお子さんはいらっしゃるのですかときいた。ちょうどポートを外したときの傷跡を消毒するときである。聞いたとたんに先生が固まった。消毒薬を含ませた脱脂綿を持っていたのだが、ポロッと落としてしまった。先生はピンセットを持ったまま動かない。看護師が「先生、落としてますよ」とあわてている。
 そこで先生から出た言葉が・・・・「三歳の娘がいるのだが、僕になつかないんだよ」であった。私は大笑いをしてしまった。一瞬父親にもどっしまったようだ。やはり父親にとっては娘はかわいい物なのだろう。

もう一つ余談。後から言われたのだが、この時二度ほど先生があきらめたらしい・・・・。ポートをとり外していても熱がなかなか下がらなかったからだ。後は全身が赤くなったとき。命の危険があったとのこと、手の施しようがないと思っていたそうだ。

生きていてよかった・・・・・。今でも心からそう思っている。

ではまた次回。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
予約していた10月9日、がんセンターに行くこととなった。一度だけお見舞いで来たことはあるが、患者として初めてはいる場所だ。少々緊張気味である。

横になるが、血液型占いでB型は「人見知りが激しいが、三日もたてば旧知の仲になる」と言うのを聞いたことがある。占いを信じる方ではないが、確かにこれは当たっている。

診察が始まった。今度の主治医はお相撲さんの舞の海そっくりのY先生である。この先生の言うことがまたきつい。なにもしなければ余命半年だねと、さらっと言う。市民病院のA先生からは、きついことを言う先生だというのは聞いていたから、覚悟はしていたが、言われる方になって見ろ‼と言いたかった。笑顔もなし、この頃は冷たい感じのする医師だなぁと言うのが本音だった。

 一通りCT等などの確認をしてから言われたことが、「治験」と言うことだった。抗ガン剤治療を始めるという事は分かっていたが、治験という言葉は全く知らない。

 これはまだ厚生労働省から認可されていない薬を実験的に使うことらしい。海外では使われている国もあるらしいが、日本ではまだである。
 すでに少ない量では使われていて、効果がそれなりに出ているらしい。今回は量を少し増やしてでの治験である。日本全体で9人だけという人数制限があり、今ならその中に入れるという。

主人と二人、お願いしますと即答した。

この薬は毎日一錠ずつ一個の錠剤を飲む。そのほかに2週間に一回、こちらは認可されている点滴を受けることになった。4種類の薬を使う。その中の一種類が46時間かかる物である。
最初の二回は入院が必要だが、3度目からは日帰りになる。と言う事は家で点滴をしなければならない。

そのためにはどうしてもポートが必要となる。一度熱で外している私、先が心配であるが、これがなければ治療が始まらない。一度目の入院の時に一緒にポートを受ける簡単な手術もすることになった。

その前にもう一つクリアしなければならないことがある。ガン以外に持病があるかないかと言うことである。何しろ治験である。副作用がこわい。心臓病や高血圧、糖尿病等の検査をしなくてはいけない。

初診時に10月の予定がもう決まっていた。治験コーディネーターの説明を受けつつ必要な書類にサインをした。

11日に心電図や血液検査、15日に入院してポートを埋め込み、そのまま一度目の抗ガン剤投与、30日に再び入院で二度目の抗ガン剤投与の予定となっている。

11日の検査は特に異常が見つからなかった。これで正式に抗ガン剤治療が始まった。

無事に一度目の入院を終えた。一週間の予定だったがポートを入れるのに手間取ったのと、副作用の吐き気が不安で10日間にのびてしまった。

二度目の入院の時は、吐き気よりも頭痛がものすごかった。これは血圧が急に上がってしまったからである。頭痛時は180にもあがってしまった。11月3日に退院したが、しばらくは頭痛に悩まされていた。急に血圧が上がったときだけ激しい頭痛が起るのである。水タイプの鎮痛剤をもらっていたのでそれを飲めば治まるのだが、涙が出てくるほど痛い。

翌週火曜日の受診の時には血圧を抑える薬を処方してくれた。この薬で頭痛は治まるようになった。

が・・・・・。今度はストマで悩まされる。市民病院に入院しているときは3日持っていたのだが(ストマの袋は定期的に取り替えなくてはいけない)、退院してからは1日しか持たない。どうしても便がストマをはがしてしまうのだ。

市民病院にはストマ外来というのがあって、2週間に一度通う事になっているが、それでは間に合わない。ついにはストマ部分が膿んでいるような感じになってしまう。しばしば急患として通う羽目になった。

13日には3度目の抗ガン剤を予定している。この日からは血液検査・医師の診察・抗ガン剤を投与、46時間の点滴を入れたら帰宅となる。針を自分で抜いて次回に点滴の瓶と一緒に病院に持ってくる。針を抜く練習もした。大きさは500ミリリットルのペットボトルぐらい、首かぶら下げられる袋ももらえる。

仕事もしている。姑の見舞いも行かなくてはいけない。11月は忙しい月となったなと思っていた。でもそれだけでは終わらなかった。

ではまた次回。

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退院の前に、親の介護の話を二つ。

まずは実母のこと。弟が全く何も出来ない、と言う話を以前書いた。なので私は実家に向かうことが出来なくても、我が家に何かと連絡が入る。入院前に母が脳内出血で手術をし、認知症も悪化しつつある。
 だが私がこんな状態ではとてもじゃないが母親どころではない。すぐにケアマネと連絡を取った。弟も47歳である。世間から見たらりっぱな大人である。しっかりしてもらわないと困る。
 だが、ケアマネさんの言葉は、それでは困るとのことであった。娘さんであるあなたも親の介護に関わってもらわないと話が進まないという。

でも私だって入院中で、肝臓ガンの治療もまだ始まっていない。私は病院の公衆電話から大泣きしながら、私の病状が落ち着くまでは連絡できないと言った。それでも困りますの一言だけであった。確かにヘルパーさんからは「弟さんは障害をお持ちですか」とまで言われたことがある。
 ケアマネさんが困るのも分かるが、ガンで入院している私に何を求めているのだろう・・・。だが、これ以上言うことをあきらめるしかなかった。互いに平行線である。

それから姑の話。
当時入所している施設から、暴言・暴力が激しいので、精神科の受診を勧められた。同居する以前にうつでK病院に通っていた。その病院に連絡をし、入院する手配を取っているとのこと。何でだ?認知症での診察はそこでは一度もしていないしもう10年以上も通っていない。しかし他に通える病院もない。そこを受診することとなった。
当然K病院でもとまどっていた。それも主人が強く入院を希望していることとなっている。ウチはそんな事は一度も口にしていない。その日は診察だけで帰ってきた。

しかし、やはり施設の希望もあり、どうしても入院してほしいとのことであった。翌週施設の看護師を連れて入院せざるを得なかった。

入院するには主人が母親の保護者になることが条件であった。それは家庭裁判所で簡単にできるという。私は外出届けを病院に出して家裁へと向かった。裁判所なんて入るのは初めてである。無事手続きを済ませ、精神科専門のK病院に入院することになった。

ここで一つ嬉しいことを言われた。通院していたときの看護師が、なんと私たちを覚えていたのである。
 おばあちゃんは私たちが責任もってお預かりしてお世話をするから、お嫁さん病気を治す事に専念してあげて・・・・・であった。そう言えば通院していたときもあなたのその小さいお子さんが、あなたの背中を見て育つ、きっと良い子になるよって言われた。有り難い言葉だった。

そして10月に入り、今後の治療を考える時期になった。問題は肝臓ガンの治療をどうするかであった。7日には高校の文化祭がある。しばらく役員の仕事を休んでいたし、息子は文化祭実行委員である。どうしても顔を出したい。とりあえずは体調も戻ってきているので、退院したい。

ただ、元々が大腸破裂である同時に肝臓に転移がある。ある日主治医に別室に呼ばれた。普段は病室で話をすませている。何の話だろう、ちょっと不安になった。

悪い話ではなかった。6日に退院をし、肝臓ガンの治療はがんセンターですると言うことであった。幸いに、A先生の大学時代の後輩が、がんセンターの消化器内科に勤めているという。

総合病院だと、使う薬も治療も検査の機械もどうしても限られてしまうそうだ。使いたい薬があっても思うように使えない。その代わりガン専門のその病院なら敷地内に研究施設もあり、新薬もどんどん使えるそうだ。

私は年齢を考えればまだ「若い」に入るという。薬や治療方法、ここの病院にいるよりもがんセンターに行った方がいろんな選択肢がある、そこでしっかり治療してもらう方があなたのためでもあるよ、といわれた。
 私はこのA先生を信頼していた。先生に命を助けてもらったというのもある。A先生と離れるが少し淋しい気がした。が、先生の口ぶりでは、この後輩だという先生がまた腕ののいい、頼れる医師であるというのが伝わってくる。私は、二つ返事でがんセンターに通いますと伝えた。

6日の土曜日に無事に退院できた。紹介状、CTやレントゲンの写真を同時にいただき、翌週火曜日に予約を入れてもらった。


また長くなってしまった。ではまた次回。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
手術の傷の抜糸後、A先生からポートを入れるという話があった。

これは抗ガン剤を点滴するための器具である。右側の鎖骨伸したに皮膚を切開してポートを入れ静脈につなぐらしい。その後はここに点滴の針を刺すという。

高濃度の栄養剤や腕の静脈では入れられない抗ガン剤を使用するときに必要な物だそうだ。両手もあき、長時間点滴を必要とする人にとっては便利な物である。

私の場合は腕の静脈が細く、針を刺すのが難しい。

大腸の方が一段落したら、肝臓ガンのために抗ガン剤を使用するのにどうしても必要な処置だった。

ポート自体の処置は30分で終わった。治療が一歩進んだと、私は喜んでいた。

ただ、私のお腹は少々脂肪がついている・・・・とてもやせているね、と言う体型ではない。本来は3週間で退院と言われていたが、傷の治りが遅くもうしばらくかかりそうだ。
 と言うことポートを入れても抗ガン剤の治療が出来ない。まぁ焦っても仕方がない。のんびりいこう、と思っていた矢先に高熱がででしまった。38度から39度の間を行ったり来たりしている。一週間続いた。

血液検査をしても異常はない。解熱剤も使った。抗生剤も使った。でも熱が下がらない、

最後に考えられるのがポートである。本来なら治療に使う物なのに、体が異物として受け付けないのが熱の原因だろうのことだった。
 取り除くしかない・・・それが先生の判断だった。結局抗ガン剤治療のために入れたのに一度も使うことなく外されてしまった。確かに次の日には嘘のように熱は下がった。

9月も後半に入ったが、傷の治りが遅い。理由は脂肪のつきすぎだそうだ。確かにやせてはいない。でも、普通の生活は出来そうだ。退院が待ち遠しくなっている。

私のお腹には治りの遅い傷口の所に、ストローのような器具がまだ入っている。そこは膿んでいるようである。それを早く体外に出すための物だった。それが取れないと退院は出来ないらしい。

毎日先生に退院しはいつ?と言うのが日課になってしまった。一泊の外泊と回診後の外出はOKになっている。先生の返事はいつも「聞こえない」である。しっかり聞こえているではないか。

先生曰く、自分は天の邪鬼だそうだ。そう言えば入院中よくからかわれた。でもそれが笑いの元になり、精神的に落ち込まずに済んだ。看護師さんも優しい。有り難い。

ではまた次回。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。


手術の傷は少しずつ治っているが、まだ怖くて傷跡を見ることはなかなか出来なかった。

人工肛門の知識が全くなかった私、お尻に付ける物ばかりだと思っていたが実際は違う。お腹をきり、そこに腸をつなげるのだ。そこから直接お腹の中が見えてしまうのでは、と看護師に聞いたが、実際はそんなことはない。
 今はまだ人工肛門自体は大きいが、いずれ直径2センチくらいになり、実物の肛門のようにそこは穴はしぼんで見えるようになる。

ただ、便が出るという感覚は全くないとのこと。お腹には専用の袋を付け、便が出てきたら随時トイレで廃棄する事になった。袋のしたは廃棄できるようになっている。

これをストマと言うらしい。ストマの袋には何種類か種類がある。体型に合わせてそれを決めるのがまずは大変なことだった。私はワンピース型の物に決まった。

初めの頃は看護師が廃棄してくれたが、体調がよくなるにつれ自分で出来るようにしていかないと退院は出来ない。このストマは三日で袋を取り替える事を目安にする。

私は袋がついているときには、入浴はあまりしない方が良いらしい。ただし袋を取り替えて外したときにはお腹に人工肛門があっても入浴は可能だ。便の出る感覚はなくても「垂れ流し」ではない、一日に数回出るだけである。その合間なら入浴しても便がでてしまうのではない。

入浴が可能と言うことはうれしかった。

ただ、人工肛門を付けると言うことは、身体障害者の申請ができるという。事務の知り合いからも高額医療の申請をした方が支払いが楽であると言われた。

主人にすぐに役所に行ってもらった。身障者四級であった。見た目では全く分からないのだが、主人は身障者と言うことにショックを受けたらしい。私のほうが受け入れるのが早い。
 私が高速道路を運転したときや、100キロ以上の公共の乗り物を利用したときには若干料金が安くなるそうだ。確定申告ではほんの少しだが障害者と言うことで免除がある。それが少しうれしいぞ‼、といい方向に考えるようにした。


身障者の手続きをすると、人工肛門に必要な道具を購入するときにも全額を支払うことがない。約8400円程度市から補助が出る。他の人から話を聞けば一万円ちょっと、一ヶ月にかかるらしい。助かる話である。

入院中にストマの廃棄・取替えの練習、入浴の練習いろいろとした。丁寧に教えてもらった。だんだんと傷も快復してきた。

ただそうかんんには退院できない。ストマの他にも問題が出てきた。その話はまた次回。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
術後二日目に二人部屋に移された。

その日から歩く練習をすることになった。びっくりである。そんなことをしたら傷口が開いてしまうではないか‼と、思わずいってしまった。
 昔は抜糸するまではそうだったらしいが、今は違う。傷口が開いてしまうことはないそうだ。逆に腸閉塞になったり、術後の快復が遅くなるとのことだった。

おそるおそる動いてみた。痛いの一言である。まだ尿管も点滴もいろんな物がぶら下がっている。とにかく前屈みにならないと歩けない。涙が出てくる。その日は午前中一回、午後二回しか歩けなかった。

でも日一日と薄紙をはいでいくように痛みが少なくなってきた。人間って本当に快復力はある物だと実感した。

やっと尿管も取れ、点滴以外はすべて外された。と同時に水も飲めるようになり、抜糸の頃には食事も出るようになった。

その頃、主治医であるA先生から、自分の病気のこと、ご主人から聞いたかと尋ねられた。確かに聞いてはいるが、先生の口からもう一度説明された。おまけにあと半日診察にくるのが遅かったら生命の危機も・・・・・とも言われた。

そんなある日、見舞いに来た主人、なんか違和感がある。そのとき私は看護師と話をしていた。

ふいに主人が、「手術当日、先生はなんと言ったんだっけ」と、娘に話を振った。娘の説明は私が先生から聞いたこととほとんど同じである。主人は驚いた顔をしていた。

「何をそんなにびっくりしているの」と、私と娘は逆に質問した。主人は私の余命が「早くて二ヶ月半、長くても一年」だと思っていたらしい。二人で大笑いだ。

今回の手術は破裂した大腸のほうが緊急性があったのでその処置だけをした。その傷が治って改めて肝臓の治療に入る。その治療の期間のことだったのに、それを私の余命と勘違いをしていたのである。

手術当日の記憶がないんだと主人は言う。娘から聞いたら、先生にしがみついて、「俺が変わってやりたい、俺の内臓と妻の内臓を取り替えてくれ」と泣き叫んでいたらしい。そして私の破裂した大腸を見せられて貧血を起して倒れたとのこと。看護師二人に、引きずられるように家族待合室に連れて行かれたそうだ。

娘がきちんと先生の話を聞いていてくれて助かった。今では笑い話である。

ところで主治医のA先生。とても良い先生である。見た目は取っつきにくい感じがする。主任の看護師が「外科医中の外科医」と表現するほど腕もよく、その分プライドの高そうな、冷たそうな・・・・。
でも一度話してみると、見た目とは全く逆である。患者が納得するまでよく説明してくれ、冗談もいう。

事務で勤めている知り合いからは、一番良い先生に執刀してもらってよかったねと言われた。町医者もガンの可能性がある患者には、名指しでこのA先生を名指しする医師もいるそうだ。

後から知ったのだが、ガンの認定医だそうだ。この先生が主治医でよかった、この先生のおかげで命を助けていただいたのだ、今でもそう思っている。

それではまた次回。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
市民病院に着いてすぐに治療室に向かった。ここは基本的に紹介状がないと外来は受け付けない。再来は予約制だが、かかりつけ医が緊急性を必要と伝えてくれていたらしい。

救急車でないのにすぐに診察してくれた。

レントゲン・CT・超音波の検査を受けた。もう途中からは自力で歩けず、ストレッチャーでの移動となった。

その結果を外科・内科・消化器科の医師が集まって検討した結果、緊急手術となった。今一言覚えているのが、お腹をあけてみなければ分からない・・・とのことだった。ガンの疑いも視野に入っていたらしいが、場合によっては人工肛門になる可能性もあると。

私は入院というのは産科以外に経験がない。それがいきなりの入院+手術と言うことに動揺してしまった。私がガン?人工肛門って何?

手術は嫌だと言った記憶があるが、医師にそれが聞こえたどうかは分からない。しかし手術以外に方法は無いらしい。レントゲンもチラッと見えたのだが、真っ白ではっきり写っていない。

とにかくお腹のこの痛みを取ってもらうには手術しかないようだ。手術の準備をする間、ずっと点滴をうち、ひたすら待っていた。待っている間に私も心の準備が出来た。

午後一番で手術をしてもらった。四時間弱かかったらしい。手術が終わって集中治療室にはいり、目が覚めたときに、私は何故ここにいるのだろう・・・・一番はそう思った。そうだ、私はお腹がいたくて病院に来て手術を受けたんだ。

看護師から無事に終わりましたよ、と告げられた。主人と娘が付き添ってくれていた。

主人からは、大腸ガンだと言われた。それもただの大腸ガンではない。その部位が破裂していたのである。これでは激痛が走るのも当たり前だ。と同時に肝臓にも転移があること。

そして人工肛門もついてしまった。お腹の左側に便を入れる袋がついている・・・・そのときはまだそう聞いただけであった。


ガンである、転移もある、人工肛門もついた・・・・・でも、何故か私は冷静に受け入れられることが出来た。その日は術後すぐと言うこともあり、それで終わった。私もまだ完全に麻酔が覚めていない。そのまま次の日までの記憶がなかった。

それではまた次回。

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昨日は書き忘れたが、三月は忙しい月だった。

ウチの二人の子は丸三年が離れている。二人の子の受験が重なっていた。
上の娘は前の年に指定校推薦で大学に合格していた。手続きも済ませてある。後は下の息子の受験だ。

この息子は少々問題があり、幼い頃障害の疑いがあった。早い時期の療養と知的障害がないと言うことで小・中学校とも普通学級に通えた。この頃にはなんの問題もなかったのだが、やはり受験となると娘以上に気を遣ったし心配もした。でも幸いに公立高校に見事合格することが出来た。

娘と同じ高校である。そう言う関係もあり、私はPTA本部役員となった。

二人の卒業式と入学式を終えてホッとしていた。ただ、この不況の中、自営業がうまくいかない。二月の確定申告では赤字となってしまった。私は幼児教育科を出ているので、朝晩のパート保育士として働きに行こうと思っていた矢先のことであった、病が悪化していったのは・・・・・・。

8月に入り食欲がだんだんと落ちていった。

お盆前に、かかりつけ医からは便の潜血検査をしましょうと言われた。休み明けに持って来てと言われた。

お盆には旅行を計画していた。行くかどうか悩んだが、泊まり先が夫婦ともに私の高校時代の友人なのであいたいし、今回は長野の善光寺とその隣にある美術館で東山魁夷の美術展が開催されている。どうしてもそこに行きたかったので、予定通り出発した。

何故か旅行中は食事が取れる。今でもそれが不思議だ。楽しい旅行となった・・・・・病気も治ったのだろう・・・・・・。そう思いたかった。

二泊三日の旅行だったが、帰る日になってだんだんと症状が悪化していると感じた。膀胱炎の症状も出始めた。あれだけ食べたのに便が一度も出ていない・・・・。

お盆が明けて土曜日にすぐにかかりつけ医に行って説明をした。便の潜血検査は週明けでもいい、今日は血液検査だけしましょう、とのことだった。

その日の夜10時頃だったろうか、下腹部の激痛に我慢できず、主人に近くの市民病院に連れて行ってもらった。レントゲンの結果、便が詰まっていて小腸にまでガスがたまっているとのこと、浣腸をしてもらったら嘘のように痛みが引いた。
 その日は点滴もしてもらい帰宅した。ただ点滴中に38度8分まで熱かあがったが、看護師は医師にはそれを伝えてはくれなかった。

次の日曜日、熱はすでに下がっていた。食欲以外は普通にしていられる。取れるのは水分だけだったが、痛みは無かった。とりあえずは明日かかりつけ医に相談することだ、そう思って一日を過ごした。

深夜日付が変わって少し過ぎた頃だったろうか。再び激痛が襲ってきた。昨日とはまた違う痛みのような気がする。
 主人を起したのだが、昨日も昨日だし、大したことはないだろうと言うばかりだった。でも痛いのは痛いのである。どういっても明日の朝一で医者に行けばいい・・・・・それだけだった。半分めんどくさそうに半分おこっているような感じに私はあきらめた。

朝方まで痛い痛いを連発していた。

朝、部活に行く息子を見送ってすぐにかかりつけ医に電話をした。通常9時からの診察開始だが、幸いにも電話が繋がった。事情を話したらすぐに来なさいとのこと。有り難い話である。主人も快く車を出してくれた。
娘に留守番を頼み、すぐに出かけた。

そこで言われたことが、すぐに入院しなさいだった。なんと赤血球と白血球が通常の何百倍もあるらしい。入院なんて言われるとは思っていなかったので、着替えや荷物を取りに行きたいと言ったら、駄目の一言。

紹介状を書くから、とのこと、土曜日に行った市民病院にいくことにした。そこには事務で知り合いが勤めている。
 今の時間は看護師が申し送りをしているからそれが終わる頃に電話してするから、それまでここで待っているように・・・・・とのことだった。その間に紹介状を書いてくれるそうだ。私は点滴をしてもらった。

主人は一旦家に戻り、娘を連れてきた。後から考えたら、娘を連れて行ったことは大正解だった。

市民病院についたときにはもう自力で歩けない状態だった。

この後のことはまた次回に書くことにする。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
今思えば、思い当たる節はあった。

それは去年の一月、お正月が明けたまもなくの頃である。
夕飯を食べ終え少したったとき、下腹部に鈍い痛みがおこった。トイレに駆け込んだが下痢でもなく、便は出てきそうもない。しばらく座っていたら嘘のように痛みが引いた。しかし、1時間もしないうちにまた痛みが襲ってくる。

その日は一晩中そんな感じで、ほとんどねていられなかった。が、明け方、大量の?下痢で痛みが全くなくなってしまった。一晩中苦しんだ痛みはなんだったのだろうか。

とりあえずかかりつけ医に出向いた。お腹の方は整腸剤を処方してくれた。が・・・・・。

突然医師が目の下まぶたを見ている。お腹の痛みで来たのに何で・・・と思ったら、目をあかんべーをしたときに真っ白になっているよとのこと。確かに白い。

念のためにと血液検査をした。後日結果を聞きに行ったら重度の貧血状態だ言うことが分かった。ヘモグロビンの数値が5.8。通常の半分以下である。
 急激にこの数値なら倒れて起き上がれないそうだ。徐々に減っていたと思われる。

筋腫か血便、思い当たることはないですか、と言われた。生理に異常は見られないし、血便と言われても改めて便の状態をしげしげと見たこともない。

とりあえずは貧血を改善するために20回の注射を打つととなった。一日おきに通う羽目になった。

三月に入り、貧血はだいぶ改善された。今度は薬での治療となる。その頃からお腹の張りがひどくなった。貧血の薬と同時に胃腸のくスリを飲むことになる。飲んだ直後は楽になるが、薬をやめしばらくするとまたひどくなる。

ただ食欲はあり、お腹の張り以外は元気に過ごすことが出来ている。元々胃腸炎で季節の変わり目はよく下痢をしていたし、年も年だから疲れているだけだろう・・・そう思いこんでいた。

ひどくなったのは八月に入ってからだった。

長くなるので、続きはまた明日。
一昨日は実家のことを書いたが、その中にはいっぱい悩まされたことがあった。

姑の介護の中でもいろいろとあった。ただ、どちらももう過去のこととして心の中で整理できていることがほとんどである。

これからのことは随時書くこともあるだろうが、整理できた事に関しては改めて書くつもりはない。

ただどうしても許せないことがある。


まずは弟のことである。何故絶縁関係になったか・・・・もちろん二人きりの兄弟である。そんなことはしたくないのは当然のことだ。

私に成年後見人になれと勧められたほど、弟は自分で何も出来ない人間である。もちろん独身。たぶんそれは弟のせいではないだろうとは思っている。父親が悪いのだろう。

父親は、自分の思い通りにならないと気が済まない人間であった。母親は父の言いなりであった。父親の顔色を見ているばかりである。何をするにしても「お父さんが怒るから」ばかりだった。
兄弟喧嘩をすれば、何が原因か・・・を考える前に、お父さんが怒るよだった。そして最後に言われるのが「お姉ちゃんなのだから我慢しなさい」である。

弟は父親より。もちろん母も。父が物事すべてを仕切るから楽だからである。もちろん父をおそれてと言うのもあるが、何も考えなくても家事と勉強だけしていればいいのである。

私はそんな日々がいやだった。物心ついてからは逆らったばかりだった。

そんな母と弟は、父が倒れて目の前に「レールを敷いてくれる」人間がいなくなってしまい、何をどうすれば良いのかが分からなくなったようだ。

だから私の所に連絡が来る。それが気に入らないという。じゃあ自分でやればいいだろうとなる。それが私が弟に喧嘩を売っている、と、取られてしまった。

弟は自分が経験していないことは何も出来ない。父が何もさせなかったからだ。私は分からなければ聞くし、調べることも出来るし、もちろん自分で考えて行動するのが好きである。同じ兄弟なのに何故こんなに違うのだろうか・・・・。

しかし出来ない物は出来ない。結局は私がやらねばならない。最後父の葬儀を終えたところで絶縁宣言されてしまった。


未だに淋しい・・・・・私にはそれしかない。

次に民生委員に言われた言葉。

ある日、突然母のことで民生委員から電話があった。ウチの電話番号は隣人から聞いたそうである。隣人には何かあったら・・・・・と思い、連絡先を教えていた。弟が信じられないからである。

65歳以上のお年寄りがいる家庭をまわっているとのことであった。当然私と弟との関係も聞かれた。
当時は姑の介護や子どもの受験も重なり、精神的にも余裕がなかった。顔も見たことのない、面識のない人に、民生委員という肩書きだけで・・・こういう書き方は失礼だが本当辛かった・・・・実家の恥をさらしたくなかった。弟のことも言いたくなかった。

なので、今は勘弁してくれ、主人も実家のことに関わることをいやがられている、時期が来たらいずれ相談に伺うから・・・・と伝えた。

それから半年ぐらいたった頃だろうか。実家で母と弟が大げんかをし、警察沙汰になったという連絡が入った。
ある程度気持ちも落ち着いたので、民生委員に連絡を取った。

そのときに言われた言葉が・・・・・

「私との関わりを切ったのはあなただろう、何を今更私に相談するというのか、あなたにはそんな権利はない」

の一言だった。正直ショックだった。それからもうずいぶんと時間がたつが、この言葉は一生忘れられないだろう。民生委員てなんだろうか・・・そんなに私は悪いことをしてしまったのか。答えが分からない。
今日は姑の介護のことである。

昨日も書いたが、娘が小学校に入学した年に姑との同居をした。

結婚した翌年の春に姑は定年退職をした。飼っていた愛犬の死、私たちの結婚で一人暮らしをしたこと、そして定年と言う環境の変化から老人性うつ病と診断された。

しばらくは私と義姉と日にちをずらして週四回実家に通って身の回りの世話をしていたが、周りからは長男が何故同居してあげないのか、と言う声が聞こえてきた。

いろいろと事情があったのだが、私の実家と同様、同居せざるを得なくなり一軒家を借りて住む事となった。

しばらくはそれでも平穏な生活が続いていた。そう思いこむようにしていた。だけどうつがだんだんと悪化し、それまで出来ていた事が出来なくなってきた。お風呂にも入らず、着替えもせず毎日ねているばかりの生活。
 少しでも声かけると、暴言の嵐、そのうちに床をたたいたりタンスや壁をどんどんとたたいたり。

父が入院した年の秋に、姑も介護認定を受けることにした。その診断は介護3だった。やはり認知症だった。

父が亡くなる時期と同じくして、失禁も始まるようになった。便は手づかみして窓から庭に捨てる、食べ物も同様。お小水は階段の上からしてしまう。暴言・暴力は当然のこと、近所からもどうしたのと声かけられるようになった。

同居も困難になり、夫婦げんかも親子げんかも多くなった。毎日が地獄のようであった。

もう我慢はしたくない・・・・施設入所を決断した。幸い近所にはいくつもの施設がある。特養と老健複数見学し、取り合えず特養2カ所に申し込み、老健に入所となった。

それからはずっと今も老健での生活となっている。それが良いか悪いかは答えは出せていないが、少なくとも姑も私も心穏やかになり、互いに笑顔で接することが出来ている・・・・・とおもう。

ただ、問題がひとつ。義姉夫婦と絶縁された。私たち夫婦が嫌いなのではないという。問題は姑。

それには仕方がない理由があるが、とても書ける内容ではない。施設に入所するには保証人が必要だが義姉からは断られた。私たちと会いたいけど、どうしても姑の仕打ちを思い出してしまうからあえないという。それは義兄も同意見。

どうして互いに兄弟とは縁が薄いのだろうか・・・・切ない気持ちでいる。

ではまた次回。

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それは一本の電話で始まった。

当時老人性鬱病の姑と同居中のことである。電話の主は母親からだった。父親が脳梗塞で緊急入院したとのことだった。

初めてのことではないし、私ものんびりしていた。父親とは元々そりが合わない。時々暴力もふるうという父、母にとって父が入院すると言うことは良い骨休めになる。

だが、私にとっては「骨休み」どころではなくなった。脳梗塞の場所が悪く、半身不随となってしまった。

それがきっかけかどうかは分からないが、母の認知症が発覚した。父が入院してまもなく、母から再度電話があった。

お正月あけに工事を頼んだリフォーム会社からきちんと支払いをしているのに300万の請求があったという。その工事会社は私の家のすぐそば。
 母から書類をもらい問い合わせをした。工事は300万ではなく、700万だった。また、300万の督促の電話はしていないとのこと。

でもどうも書類がおかしい・・・・・。見積計算書しかない。

すぐに生活相談センターに出向き、母と弟をつれ、相談に行った。いろいろと話し合い調べてもらったら当然のごとく、悪徳業者だった。他にもわんさかと苦情相談のある会社だった・

弁護士さんを通しローンの解約をし、どうにかお金を返してもらえたが、母の説明はもちろん、弟に説明をしてもらってもコロコロと話が変わり、その場で私は弟とけんか状態になってしまった。

本来なら若い弟がしっかりしてそう言う業者に疑問を持つべきなのに、その弟が保証人になってしまう・・・・・そんな状態に職員が、私に向かって成年後見人になった方が良い、と言うアドバイスをもらった。

その後、父の脳梗塞の治療も終わり、介護5という状態になった。入院先のソーシャルワーカーから私の所に電話が来た。

在宅介護は無理、この先退院して施設に入所させてほしい、その施設を私にやってほしいとのことだった。

実家は車で30分もかからないところだが、ウチにも問題ありの姑がいるし、自営業の手伝いもしている。本来ならそれは弟がやるべきではないか・・・・、と伝えたところ、「弟さんは今自分が置かれている立場を全く理解しようとしていない。もう退院時期が来ているのであなたにやってもらわないと困る」
と言うことだった。

まだ成年後見人の手続きはしていなかったのだが、そうも言っていられない状況になってしまった。

母もだんだんと悪化しているようだ。父の施設探しとその手続き、入所と同時に母の介護も必要になった来てしまった。

父はとりあえず我が家そばの施設に入所出来た。成年後見人になりたいと思ったし施設の費用を支払うのに必要のため、とりあえず父名義の通帳を借りた。

それを見てびっくりした。なんと400万のマイナス。一度信用金庫の人のアドバイスで定期を解約して普通預金に入金したのだが、またマイナスになっているようだ・・・・。それもいろいろと調べてみたら、母が年金以上の金額を毎月引き下ろしている。時には月合計100万以上のこともあった。防犯カメラではしっかり何度もおろしている母の姿があったそうだ。

その日から私が父の通帳を管理することとなった。それと同時に母も介護認定を受けた方が良いと思い、とある病院を教えてあげた。

それが弟と母には気に入らなかったらしい。母が「娘が、私を鉄格子のある病院に入れ、父親を了解なしに知らない施設に入れ、実家の全財産を乗っ取る泥棒娘」と言い始めた。

母の認知症症状を認めない弟はその言葉を鵜呑みにした。母は近所にも言いふらしたそうだ。

翌年父親は、施設で他界した。葬儀一式は私がだした。そうせざるを得なかった。最後まで父は私とは話しすらしようとはしなかった。

父の葬儀後、年金関係も母の介護認定も何もかも私がやったが、一段落したところで、私は実家にいくことが出来なくなってしまった。弟の声を聞いただけでパニック状態になった。

実家の両隣の人は私を理解してくれているが、それ以外に人は、線香一本あげに来ない冷たい娘だと今も思われている。

弟からは絶縁を宣告された。二度と敷居はまたぐな、だそうである。どこからその言葉が出てくるのだろう・・・・・。



初めての書き込みで長文になったしまった。


ではまた次回。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
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