ガンの告知と手術

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退院の前に、親の介護の話を二つ。

まずは実母のこと。弟が全く何も出来ない、と言う話を以前書いた。なので私は実家に向かうことが出来なくても、我が家に何かと連絡が入る。入院前に母が脳内出血で手術をし、認知症も悪化しつつある。
 だが私がこんな状態ではとてもじゃないが母親どころではない。すぐにケアマネと連絡を取った。弟も47歳である。世間から見たらりっぱな大人である。しっかりしてもらわないと困る。
 だが、ケアマネさんの言葉は、それでは困るとのことであった。娘さんであるあなたも親の介護に関わってもらわないと話が進まないという。

でも私だって入院中で、肝臓ガンの治療もまだ始まっていない。私は病院の公衆電話から大泣きしながら、私の病状が落ち着くまでは連絡できないと言った。それでも困りますの一言だけであった。確かにヘルパーさんからは「弟さんは障害をお持ちですか」とまで言われたことがある。
 ケアマネさんが困るのも分かるが、ガンで入院している私に何を求めているのだろう・・・。だが、これ以上言うことをあきらめるしかなかった。互いに平行線である。

それから姑の話。
当時入所している施設から、暴言・暴力が激しいので、精神科の受診を勧められた。同居する以前にうつでK病院に通っていた。その病院に連絡をし、入院する手配を取っているとのこと。何でだ?認知症での診察はそこでは一度もしていないしもう10年以上も通っていない。しかし他に通える病院もない。そこを受診することとなった。
当然K病院でもとまどっていた。それも主人が強く入院を希望していることとなっている。ウチはそんな事は一度も口にしていない。その日は診察だけで帰ってきた。

しかし、やはり施設の希望もあり、どうしても入院してほしいとのことであった。翌週施設の看護師を連れて入院せざるを得なかった。

入院するには主人が母親の保護者になることが条件であった。それは家庭裁判所で簡単にできるという。私は外出届けを病院に出して家裁へと向かった。裁判所なんて入るのは初めてである。無事手続きを済ませ、精神科専門のK病院に入院することになった。

ここで一つ嬉しいことを言われた。通院していたときの看護師が、なんと私たちを覚えていたのである。
 おばあちゃんは私たちが責任もってお預かりしてお世話をするから、お嫁さん病気を治す事に専念してあげて・・・・・であった。そう言えば通院していたときもあなたのその小さいお子さんが、あなたの背中を見て育つ、きっと良い子になるよって言われた。有り難い言葉だった。

そして10月に入り、今後の治療を考える時期になった。問題は肝臓ガンの治療をどうするかであった。7日には高校の文化祭がある。しばらく役員の仕事を休んでいたし、息子は文化祭実行委員である。どうしても顔を出したい。とりあえずは体調も戻ってきているので、退院したい。

ただ、元々が大腸破裂である同時に肝臓に転移がある。ある日主治医に別室に呼ばれた。普段は病室で話をすませている。何の話だろう、ちょっと不安になった。

悪い話ではなかった。6日に退院をし、肝臓ガンの治療はがんセンターですると言うことであった。幸いに、A先生の大学時代の後輩が、がんセンターの消化器内科に勤めているという。

総合病院だと、使う薬も治療も検査の機械もどうしても限られてしまうそうだ。使いたい薬があっても思うように使えない。その代わりガン専門のその病院なら敷地内に研究施設もあり、新薬もどんどん使えるそうだ。

私は年齢を考えればまだ「若い」に入るという。薬や治療方法、ここの病院にいるよりもがんセンターに行った方がいろんな選択肢がある、そこでしっかり治療してもらう方があなたのためでもあるよ、といわれた。
 私はこのA先生を信頼していた。先生に命を助けてもらったというのもある。A先生と離れるが少し淋しい気がした。が、先生の口ぶりでは、この後輩だという先生がまた腕ののいい、頼れる医師であるというのが伝わってくる。私は、二つ返事でがんセンターに通いますと伝えた。

6日の土曜日に無事に退院できた。紹介状、CTやレントゲンの写真を同時にいただき、翌週火曜日に予約を入れてもらった。


また長くなってしまった。ではまた次回。

このプログが私の気晴らしと生きる力になる場でありますように・・・。
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手術の傷の抜糸後、A先生からポートを入れるという話があった。

これは抗ガン剤を点滴するための器具である。右側の鎖骨伸したに皮膚を切開してポートを入れ静脈につなぐらしい。その後はここに点滴の針を刺すという。

高濃度の栄養剤や腕の静脈では入れられない抗ガン剤を使用するときに必要な物だそうだ。両手もあき、長時間点滴を必要とする人にとっては便利な物である。

私の場合は腕の静脈が細く、針を刺すのが難しい。

大腸の方が一段落したら、肝臓ガンのために抗ガン剤を使用するのにどうしても必要な処置だった。

ポート自体の処置は30分で終わった。治療が一歩進んだと、私は喜んでいた。

ただ、私のお腹は少々脂肪がついている・・・・とてもやせているね、と言う体型ではない。本来は3週間で退院と言われていたが、傷の治りが遅くもうしばらくかかりそうだ。
 と言うことポートを入れても抗ガン剤の治療が出来ない。まぁ焦っても仕方がない。のんびりいこう、と思っていた矢先に高熱がででしまった。38度から39度の間を行ったり来たりしている。一週間続いた。

血液検査をしても異常はない。解熱剤も使った。抗生剤も使った。でも熱が下がらない、

最後に考えられるのがポートである。本来なら治療に使う物なのに、体が異物として受け付けないのが熱の原因だろうのことだった。
 取り除くしかない・・・それが先生の判断だった。結局抗ガン剤治療のために入れたのに一度も使うことなく外されてしまった。確かに次の日には嘘のように熱は下がった。

9月も後半に入ったが、傷の治りが遅い。理由は脂肪のつきすぎだそうだ。確かにやせてはいない。でも、普通の生活は出来そうだ。退院が待ち遠しくなっている。

私のお腹には治りの遅い傷口の所に、ストローのような器具がまだ入っている。そこは膿んでいるようである。それを早く体外に出すための物だった。それが取れないと退院は出来ないらしい。

毎日先生に退院しはいつ?と言うのが日課になってしまった。一泊の外泊と回診後の外出はOKになっている。先生の返事はいつも「聞こえない」である。しっかり聞こえているではないか。

先生曰く、自分は天の邪鬼だそうだ。そう言えば入院中よくからかわれた。でもそれが笑いの元になり、精神的に落ち込まずに済んだ。看護師さんも優しい。有り難い。

ではまた次回。

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手術の傷は少しずつ治っているが、まだ怖くて傷跡を見ることはなかなか出来なかった。

人工肛門の知識が全くなかった私、お尻に付ける物ばかりだと思っていたが実際は違う。お腹をきり、そこに腸をつなげるのだ。そこから直接お腹の中が見えてしまうのでは、と看護師に聞いたが、実際はそんなことはない。
 今はまだ人工肛門自体は大きいが、いずれ直径2センチくらいになり、実物の肛門のようにそこは穴はしぼんで見えるようになる。

ただ、便が出るという感覚は全くないとのこと。お腹には専用の袋を付け、便が出てきたら随時トイレで廃棄する事になった。袋のしたは廃棄できるようになっている。

これをストマと言うらしい。ストマの袋には何種類か種類がある。体型に合わせてそれを決めるのがまずは大変なことだった。私はワンピース型の物に決まった。

初めの頃は看護師が廃棄してくれたが、体調がよくなるにつれ自分で出来るようにしていかないと退院は出来ない。このストマは三日で袋を取り替える事を目安にする。

私は袋がついているときには、入浴はあまりしない方が良いらしい。ただし袋を取り替えて外したときにはお腹に人工肛門があっても入浴は可能だ。便の出る感覚はなくても「垂れ流し」ではない、一日に数回出るだけである。その合間なら入浴しても便がでてしまうのではない。

入浴が可能と言うことはうれしかった。

ただ、人工肛門を付けると言うことは、身体障害者の申請ができるという。事務の知り合いからも高額医療の申請をした方が支払いが楽であると言われた。

主人にすぐに役所に行ってもらった。身障者四級であった。見た目では全く分からないのだが、主人は身障者と言うことにショックを受けたらしい。私のほうが受け入れるのが早い。
 私が高速道路を運転したときや、100キロ以上の公共の乗り物を利用したときには若干料金が安くなるそうだ。確定申告ではほんの少しだが障害者と言うことで免除がある。それが少しうれしいぞ‼、といい方向に考えるようにした。


身障者の手続きをすると、人工肛門に必要な道具を購入するときにも全額を支払うことがない。約8400円程度市から補助が出る。他の人から話を聞けば一万円ちょっと、一ヶ月にかかるらしい。助かる話である。

入院中にストマの廃棄・取替えの練習、入浴の練習いろいろとした。丁寧に教えてもらった。だんだんと傷も快復してきた。

ただそうかんんには退院できない。ストマの他にも問題が出てきた。その話はまた次回。

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術後二日目に二人部屋に移された。

その日から歩く練習をすることになった。びっくりである。そんなことをしたら傷口が開いてしまうではないか‼と、思わずいってしまった。
 昔は抜糸するまではそうだったらしいが、今は違う。傷口が開いてしまうことはないそうだ。逆に腸閉塞になったり、術後の快復が遅くなるとのことだった。

おそるおそる動いてみた。痛いの一言である。まだ尿管も点滴もいろんな物がぶら下がっている。とにかく前屈みにならないと歩けない。涙が出てくる。その日は午前中一回、午後二回しか歩けなかった。

でも日一日と薄紙をはいでいくように痛みが少なくなってきた。人間って本当に快復力はある物だと実感した。

やっと尿管も取れ、点滴以外はすべて外された。と同時に水も飲めるようになり、抜糸の頃には食事も出るようになった。

その頃、主治医であるA先生から、自分の病気のこと、ご主人から聞いたかと尋ねられた。確かに聞いてはいるが、先生の口からもう一度説明された。おまけにあと半日診察にくるのが遅かったら生命の危機も・・・・・とも言われた。

そんなある日、見舞いに来た主人、なんか違和感がある。そのとき私は看護師と話をしていた。

ふいに主人が、「手術当日、先生はなんと言ったんだっけ」と、娘に話を振った。娘の説明は私が先生から聞いたこととほとんど同じである。主人は驚いた顔をしていた。

「何をそんなにびっくりしているの」と、私と娘は逆に質問した。主人は私の余命が「早くて二ヶ月半、長くても一年」だと思っていたらしい。二人で大笑いだ。

今回の手術は破裂した大腸のほうが緊急性があったのでその処置だけをした。その傷が治って改めて肝臓の治療に入る。その治療の期間のことだったのに、それを私の余命と勘違いをしていたのである。

手術当日の記憶がないんだと主人は言う。娘から聞いたら、先生にしがみついて、「俺が変わってやりたい、俺の内臓と妻の内臓を取り替えてくれ」と泣き叫んでいたらしい。そして私の破裂した大腸を見せられて貧血を起して倒れたとのこと。看護師二人に、引きずられるように家族待合室に連れて行かれたそうだ。

娘がきちんと先生の話を聞いていてくれて助かった。今では笑い話である。

ところで主治医のA先生。とても良い先生である。見た目は取っつきにくい感じがする。主任の看護師が「外科医中の外科医」と表現するほど腕もよく、その分プライドの高そうな、冷たそうな・・・・。
でも一度話してみると、見た目とは全く逆である。患者が納得するまでよく説明してくれ、冗談もいう。

事務で勤めている知り合いからは、一番良い先生に執刀してもらってよかったねと言われた。町医者もガンの可能性がある患者には、名指しでこのA先生を名指しする医師もいるそうだ。

後から知ったのだが、ガンの認定医だそうだ。この先生が主治医でよかった、この先生のおかげで命を助けていただいたのだ、今でもそう思っている。

それではまた次回。

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市民病院に着いてすぐに治療室に向かった。ここは基本的に紹介状がないと外来は受け付けない。再来は予約制だが、かかりつけ医が緊急性を必要と伝えてくれていたらしい。

救急車でないのにすぐに診察してくれた。

レントゲン・CT・超音波の検査を受けた。もう途中からは自力で歩けず、ストレッチャーでの移動となった。

その結果を外科・内科・消化器科の医師が集まって検討した結果、緊急手術となった。今一言覚えているのが、お腹をあけてみなければ分からない・・・とのことだった。ガンの疑いも視野に入っていたらしいが、場合によっては人工肛門になる可能性もあると。

私は入院というのは産科以外に経験がない。それがいきなりの入院+手術と言うことに動揺してしまった。私がガン?人工肛門って何?

手術は嫌だと言った記憶があるが、医師にそれが聞こえたどうかは分からない。しかし手術以外に方法は無いらしい。レントゲンもチラッと見えたのだが、真っ白ではっきり写っていない。

とにかくお腹のこの痛みを取ってもらうには手術しかないようだ。手術の準備をする間、ずっと点滴をうち、ひたすら待っていた。待っている間に私も心の準備が出来た。

午後一番で手術をしてもらった。四時間弱かかったらしい。手術が終わって集中治療室にはいり、目が覚めたときに、私は何故ここにいるのだろう・・・・一番はそう思った。そうだ、私はお腹がいたくて病院に来て手術を受けたんだ。

看護師から無事に終わりましたよ、と告げられた。主人と娘が付き添ってくれていた。

主人からは、大腸ガンだと言われた。それもただの大腸ガンではない。その部位が破裂していたのである。これでは激痛が走るのも当たり前だ。と同時に肝臓にも転移があること。

そして人工肛門もついてしまった。お腹の左側に便を入れる袋がついている・・・・そのときはまだそう聞いただけであった。


ガンである、転移もある、人工肛門もついた・・・・・でも、何故か私は冷静に受け入れられることが出来た。その日は術後すぐと言うこともあり、それで終わった。私もまだ完全に麻酔が覚めていない。そのまま次の日までの記憶がなかった。

それではまた次回。

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